仏、法、僧
>ここです。
>本当の意味での師は自らの心でしかない。
>教祖はそのきっかけを与えてくれる。
>教祖の言葉そのものではなく、教祖の存在そのものが信仰である。ということになるのでしょうか。
法則を告げることがきっかけであって、それを実践するのは自分です。
実践する主体は自分なので、自分の責任でやっているという感覚です。
>少し整理します。
>告げる者がいる。これを語り部と表現してみます。
>語りべの語りに従うのは単なる「服従」であり、語り部は「洗脳」となります。
>オウム真理教のやった事件はこの結果なのかもしれません。
>しかし、あなたの場合は、語りと行為の間に、自主的な解釈というものがあり、その上で行為しているということになるわけですね。
そうです。明確にあります。
また、語り、解釈、行為が同時ということもあり得ます。
これは、告げるものと告げられるものが同通でき、それが伝わって、単独でも行動できるとでもいいましょうか、個としての個性は維持したまま、法則を受け継いでいるというほうが正確でしょう。
その時点で教祖からなのか、自分がなのかは、境界がはっきりしなくなってきます。出所が教祖だといえば信仰となりますし、自分がやっているといえば、自らの心だということになります。
これは立脚点を変えるだけで、異なってくることです。
本質論とすれば、もともと同じものということです。
>まず、「智慧」があります。
>その「智慧」に気付いた「教祖」がいます。
>その「教祖」が発した「教え」があります。
>「教え」は地図を完成してくれるものであることが「理解」されます。
>「理解」である以上、それは個人の「思い」です。
>となると「信仰」の対象は「智慧」であるということになると思うのですが、やはり「教祖」は「象徴」ですから、象徴である教祖を信仰するということになるのでしょうか。
>ここの所が既存宗教とは違う部分として指摘されているのかもしれません。
>あくまでも形態上の違いとして。(教えの内容そのものは含めていません)
>釈迦を「智慧の第一理解者」という表現をするならば、教祖は「智慧の第二理解者」ということが言えそうな気がします。
「第一」も「第二」も単に時間的背景の差でしかなく「理解者」としては同じことである。
>その「熟度」の差はあるかもしれないが、それを比較することはできないし、少なくとも、現時点においては「智慧の理解者」としてそれを「語る」者であるから、その教祖を「智慧の具現化する象徴」として「信仰」するのだといった印象です。
重要度において、教えを説く人、教え、教えを広げる人々という位置付けはありますが、本質面をいうと、同じものということができます。