信仰に至った経緯

>信仰するに値する宗教の経典であるから、これを信じるということでしょうか。
>いずれにしても、あなた個人としての信仰に至った経緯について、お伺いできればありがたいのですが。

私は単純には物事を判断してしまわないで、自分で確証してから判断することを原則にしていました。
判断するのは自分です。判断材料を集めるのも自分です。
それを経験に変え、知恵とするのも自分です。
確かに、親をはじめ、周囲の方々から育てて頂いています。
しかし、それを自分自身と確定するのも自分なのです。
知識的に得られることには限界があります。
只々経験を重ねても、認識力が乏しいままでは遅々とした歩みでしかない。
学問的に説かれたものでも多少参考にはなります。
しかし、丸覚えしなさいというような教えは私はどうしても納得がいかなかった。
その時点で、努力でやっていけるという希望が半分と、こんな河原に石を積んでいくような方法しかないことに途方に暮れそうになっていた気持ちが半分ありました。
大海に飛び込んで、泳いでいく、そうした気分です。

その間には様々なきっかけがありました。
宗教的教育を受けていなかったかといえば、素朴な先祖への信仰、心の大切さを通して、受けていたと思います。
それはしかし、無条件に受け入れてしまうには、矛盾や不備があり過ぎました。
あまりに他に答えを求めるのは無理があり過ぎる。
そして、自分で確立するしかないと思いました。
思いにおいて、本当の意味での師は自らの心しかない。

それから数年が経ち、幸福の科学に出会い、確証に数年を費やすと同時にその教えを学ぶことを許されるだけの自分であるかどうか、また、その時点の自分の判断力で決断できるものであろうか、それを繰り返し自らに問いながら実践し始めました。

私はその間に、その教えを受け入れたとしても、自分を見失わないでいられるように、自己確立がある程度、納得できるまで、客観的でいることにしました。
それから始めなくてはならないと思いました。
そして決意して入信したときには、志を同じくする者が集まっておりました。

その教えを信仰することに価値を見いだすことは、教え自体を実践して確証するか、既に実践したことと照らし合わせるかどちらかしかありません。
自分で判断がつかず、しかしその妥当性が認められるものはまずは判断を保留とする。
しかし、全体の大勢を占める生き方、心の法則を繋ぎ合わせていくと、その判断のできないところの事象も整合して来ました。

ある一定の段階に来たところで、転機が訪れます。
それは信仰です。
この教えに出会ったときから論理的には理解していました。
こうした時期が訪れるのもわかっていました。
信仰するということはいったん、自分の限界というものを取り払ってしまうことを意味します。
価値基準がいったん白紙になります。
自我と呼ばれる自意識というものを、いったん白紙にする必要があります。
後に気が付いたことは、人間、白紙から物事を考えることができなければ、なにもできないということです。
そして、自分の責任さえ自分でとれないということです。
白紙じゃないままに信仰を始めたら、悪いことは仏、神のせいにして、いいことだけ自分の手柄にし始めます。
白紙じゃない価値観に執着しているからです。

>信仰は悪いことが続くと、みずからの行いを悔い改めなければならないという方向に向くと思うのです。
>それが仏や神のせいにするようでは、それはまだ信仰しているといえないのではないかと思います。(あなたのことではないですよ)

そうですね。その通りです。
原則は、自ら内在する性質を発見し、他にも内在する性質を発見し、それが協調している状態で、自己確認できるのが、基本と思います。
厳密な意味での自分のせい、他人のせいというのはないと思います。

信仰は私に多くのことを与えてくれました。
こうして素直に話ができるのも、自分の心に限界を感じずにいれるのも、この教えと実践している内容と未来への展望が確信できているからなのです。

>いずれにしても心根がしっかりと大地についていくことになれば、それは何であっても、私はすばらしいことだと思います。

この信仰は現在進行形のものなのです。
固定したものではないのです。心の中に生きているのです。




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