三宝帰依
>師匠がいて、弟子がいる。
>絶対的信頼たる人物として教えを乞う関係というものと、あなたの「信仰」とは違うものなのでしょうか?
厳密に言うと違うのかもしれません。
第1義的に誰か特定の人が信仰の対象になる必要はなかったと思います。
ただ、教えの内容を中心に捉えて、それを説く人を信頼できるかどうか、そのステップがひとつあります。
教え、法則そのものがまずあって、それを告げている存在と捉えています。
告げる役割そのものと捉えています。その意味で同じ意味です。
当然ながら告げるだけの実力を認めているということです。
告げられた内容のみならず、その発展の可能性を認めているから信仰しているといえましょうか。
>では、信仰の対象となるのは一体何になるのでしょう。
信仰とは、現在の自分という限界を超越するということです。
現在の視点からみると発展、本来の在り方からみるとして、それを全うするということです。
他の存在、他の力というものを自らと繋げていくことによって発展をします。
自の発展と、他の発展は両立します。
ここで、信仰とは、その前提を提示する存在への信仰となります。
それはつまり、きっかけを与え続ける存在への信仰(指導者への信仰)と教え、法則への信仰(智慧への信仰)があります。
智慧は与えられ、自ら修得して後、得られるものです。
究極において智慧は得られるものではありますが、それまでは段階的に教えを請わねばなりません。
また、修行者としての姿勢はすべての経験、すべての環境を学びとする姿勢が必要です。
智慧への信仰は究極にあるものですが、実際の過程として指導者への信仰となります。
反面、自分も教え、法則と直接繋がっていますから、位置関係だけでいくと並列になっています。人間である以上、それは避けがたいでしょう。
人間の枠組みも外す必要があるかもしれません。
>基本的構造は仲間組織、告げる本体は象徴として存在しているということですか?
基本的構造としては仲間意識がありますが、現実的役割の違いはあります。
指導者的役割を与えられている場合はその役割を果たす。
修行者としてそれぞれの課題があります。
もちろん指導者には指導者の修行の課題があります。
それぞれの与えられた修行と使命があります。
告げる者はそれだけの指導をする修行と使命があります。
告げる本体は最高指導者であり、最大の使命があります。
修行者は指導者を理想とするとともに、指導を受けます。
しかし、その法則自体に影響を与える存在も否定できません。
その法則を創造している存在もあるはずです。
先日より抽象的な投稿をしていましたが、誰もがその法則の影響下にあり、影響を与え合っている存在であると思います。
その影響力の差があり、よりその影響の優先順位の高い存在もあると思います。これは、魂の実力といってもよいと思いますが、魂としての公平な評価が必要であると思います。
>魂の影響力の度合いを測り得るということになりますが、ここまでくれば理論的な根拠などというものはなく、自分の感覚を信用するしかありませんね。
信仰という他力、修行という自力
その法則を告げ、その影響を与えていく存在が、それが一人でなく、50人、100人それ以上となっても、私は矛盾と感じません。教団はそうあるべきだと思います。
それは役割や重要度の差であって、本質的な差とは思いません。
>老壮の周りに自然と人々が集うようなものですから、それはその中心人物の問題ではなくて、集う者の問題ですから、別に数字的なものは関係ありませんね。
>求心力を発しているのは老壮でしょうが、それに応答するもしないも、それは老壮には無関係なことです。
それは智慧、教え、法則が自己展開している姿ともいえましょうか。