宗教って?
>どんなところに興味、あるいは関心を抱いて入信したのでしょうか。
人は、神、仏を求め、自らの心のうちにその性質があることを発見することができます。
神、仏の性質とは思えないというようなものも発見することもできます。
そのどれが本当の自分と一致しているのか、それがわからない、判断が難しいから、神、仏を信じると言っても、どういう意味かが難しいのです。
難しいけれども関心はある。でも信じると言っても、何を信じるかをはっきりしておきたい。その判断について語ってみたいと思います。
・価値観について
心のなかにいつもあること、関心があることが価値があるとしていることです。優先順位の高いことです。
関心が低いことが価値がないと思っていることです。優先順位の低いことです。
これを箇条書きなどにして、例えば1日のうちで何時間関心を持っていたか、明確にしてみます。これが端的な価値観です。
・判断について
1)神、仏は存在するか、また、絶対的存在か
2)人は神、仏を知ることができるか
3)神、仏という名を語れば、それで神、仏を指していることになるのか
この意味において、神、仏という存在を人が知ることができる部分というのはその人が自分自身で知ることができるという内容がどういった内容なのかにかかってきます。
上記の端的な価値観のなかに神、仏に関する関心が高ければ、その内容については徐々に理解ができ、その蓄積によって認識となります。
しかし、関心の内容に偏りがあれば、偏った認識となりますし、ある人からみると偏りでも、別な人からすると偏りではないと思うこともあり得ます。
すると、神、仏がそれぞれの考え方で存在することになり、お互いの認識に差が出てくることもあり得ます。
このとき、「神、仏が唯一で、認識が異なる」とするか、「神、仏には様々な存在があり、それぞれを認識している」とするかも焦点となったりします。
実際に様々な価値観がある以上、神、仏にも多面性があると考えてよいのではないかと思います。
多面性を認識し得る者が、神、仏を認識しているともいえるのではないかと思います。
さて、その宗教の対する興味、関心ですが、この、「多面性の認識の根源にあるものはなにか」を実感するというのが入信の動機です。
「進歩」と「調和」は大きなテーマです。
>間違ったことを言ってるかもしれませんがそういう多面性の神、仏を造ったのは人間ですよね。
>そして、文化によって異なる神、仏を造った人間を創造したのは主、神、仏(?)と言われてます。
>なんか、神と人間の関係って不思議です。(^^;
人間の限界にとらわれないであろうところの仏、神という存在からするとおそらく、人間の場合、肉体からしか認識ができないことが違いとなるのではないかと思います。
神近き人々と呼ばれる方々がいらっしゃいますが、神々が人間として現れるとどうなるのかというのを想定してみるのもひとつの理解となるかと思います。
私たちは本当の心の自由というものを得ていないかもしれません。
神と人間の関係は思ったより自然な関係かもしれません。
神々には秩序があり、人間には混沌がある。その違いかもしれません。
>仮に、神が唯一のものだしとます。
>あるとき、あの世に逝ってから
「なんだ、本当の神って○△◇だったんだ。」と分かるとします。
>そうすると、その神を信じずに、別の架空の神を崇めてた人たちはその神へ冒涜してたことになるんでしょうか。
>(もっとも、複数の神々が存在すれば問題ないのでしょう。)
その可能性は否定できません。別の架空の神が影響として本当の神を冒涜する神である場合がそうです。
しかし、本当の神は導くという明確な意図があって存在するでしょうし、もちろん神はわかってほしいと思うでしょうが、かといって、神が怒りを表すとは限りません。
まずはその神の意図に反することでなければ価値中立でしょうし、意外に神への信仰であったと意識をせずに実は信仰となっている場合も多々あります。
神への信仰を明確に表明しているから信仰なのか、その逆であるかは、その心の在り方によると思います。
>仮に実在しない神を崇拝する宗教に入信します。
>でも、修行を続ければその宗教が崇拝する神ではなく、本当の神、仏を感じることが出来るのでしょうか。
>いろいろとお世話になります。m( _ _ )m
どういたしまして。こちらこそありがとうございます。
実在しない神でも・・・ということですが、
原則、可能です。しかし、実際は不可能に近い。
むしろ、本当の神、仏を感じとるには、先入観をなくしておくほうが近道であると思います。
実在しない神が本当の仏、神への道へ誘ってくれるのならばともかく、その逆をされたならば、どんどん不可能になっていきます。
それにとらわれずに自力でやれるのであれば、迷うより確実です。
その場合も、先入観なく、いくつかのチェック基準を設ける必要があります。
まず、それが神であるかどうかは別にして、
人格の向上となるかどうか。
全てを失っても、再出発できる心境にあるかどうか。
その発想、考え方で、理想、希望が見いだせるかどうか。
超常現象のみを前提としてはいないか。
理性的にも知性的にも無理はないか。自力に偏ったり、他力に偏ったりしてはいないか。
無理があるのは、ある感覚を麻痺させて他の感覚だけを強調する場合や、理性や知性を妨げるような場合、いわゆる洗脳と呼ばれる状態です。
こんなことをしなくとも、本来、仏、神は自然に感じ取れると思います。
むしろ、本来の自分とは何かを自ら問いかけていくほうが近道であると思います。
あまり、難しく考える必要はないというのが結論です。
>大変勉強になりました。ありがとうございました。m( _ _ )m