信仰を持てる理由

>あなたが「単なる宗教のひと」ではないことはわかるように思います。
>私としてはごく素朴に聞いてみたいと思います。

>いろいろな可能性がある中で、どうして自分が今している宗教だけが正しいと信じられるのか。
>そう思っている人たちがいろんな宗教のいろんな宗派に無数にいることがわかっていながらそれでもやはり自分の信仰している宗教が一番正しいと思うことが出来るのか。
>それが知りたいのです。

特に問題とされているのは、自分が正しいとすれば、他の方法でのアプローチがあるとすれば、それは間違いに違いないとする考えは、成り立たないのではないかという投げかけではないかと思います。

だから、理解もせずに、理解のチャンスも与えずに排斥しているのは理不尽なものを感じる。そうしたことでしょう。

>私たちは自分のしていることが一番正しいと思うことなんてまれです。
>常に他のやり方、他の価値観にさらされているわけです。
>ところが、宗教をしている方たちはそうではない。
>私はそれが「成り立たないのではないか」「理不尽なものを感じる」と考えるのではありません。
>自分たちが正しいと考えてしまうことができることが不思議なのです。
>なぜそんなことができるのかを考えてみたい(質問してみたい)のです。
>(ですから私が価値相対主義者であるとかそういうことではまったくありません。)

宗教を語るにあたって、大切であると思うのは、本質においては、誰もが仏、神の性質を備えていると信じていることです。

>私にはよくわからないです。ここであえて聞いてみたいと思うのは、こうした意見はすでにひとつの宗教の立場からしか言えないことなのではないか、ということです。
>様々な知的過程、宗教的過程を経てあなたはこうした結論にたどり着いたのかもしれません。だとすればそこに踏み込んでいかざるをえないような気もします。


人はなんらかの価値観を持っています。
その価値観はどうやってできたのか。
善悪などの概念があること、その価値観という思いがあること自体。
また、そうした価値観を構築する性質。
これらを人間は有している。
その性質を仏、神の性質と表現しています。
いかにその性質を正確に捉え、体現していくか。それが課題です。

そして、心として、魂として最大多数の最大幸福とは何かを実現可能な方法でより良い行為を重ねていくことだと思います。

>ここも上と同じです。
>(あなたの宗教者としての複雑さには実に不似合いな単純な意見がここで表明されているように思います。素朴に思えば、私たちは、既にこうした単純さを受け入れ難いのではないでしょうか。)


素朴に、素直に、単純にということはいつも大切なことです。
複雑に感じたことを単純化していって、構造化していって、知恵、経験として活かしていく。
その法則性が、素朴で単純であることと、知恵、経験を両立させると思います。


私は、可能性という面で、いろんな宗教がすべて正しい道を選ぶこともできると思っています。つまり、可能性としては否定しません。
前提条件として、価値観はすべて共有できる可能性がある。
まだ、お互いに理解が出来ていないだけである。
その理解の努力を怠っているだけである。と考えます。

>理解する気なんて最初からない人たちもいます。
>他を理解しないことがその宗派の本質なのではないでしょうか。
>私の疑問の方向は、「そうはいっても他のことを意識せずにいられないんじゃないか」ということです。
>つまり、なぜ「お互いに理解が出来ていない」ことができるのか、なぜ「理解の努力を怠っている」ことができるのかです。

>わたしがここであなたに聞くことがあるとすれば、宗教以外ではどうなのかということです。

表題、分類として宗教としていますが、基本的にどの分野でも同じです。
探求、実践、発展をしていく、純粋化と、その発展の過程があると思います。
精神にあてはめると、宗教として現れることになっていく。
根源の思いの探求になっていくからです。
それ以外の分野でも、必要に応じてやっていきます。
それでもやはり、それぞれ法則性があると感じています。

また、優劣などというのも、1対1で考えるから勝つか負けるかなど、決めたがるのであって、仏や神という存在からみたならば、どちらも一長一短であるとか、どちらもいいとか、どちらもだめとか、あり得るわけです。

>こうした意見こそひとつの宗教的立場だと言えるでしょう。

すると、自分だけが正しいという判断はできなくなってきます。
まさしく、私はそうした発想をしています。

>フムフム。

永遠の時間をかけて、永遠の努力をすれば達するものでも、方向性が違っていれば遠回りになります。それもひとつの方法です。

>これはちょっと意味が分かりませんでした。

ある目標に対して、成功に向かう努力を永遠に積み重ねるとして、それは、小さな成功を積み重ねて大きな成功としていくことが自然であると思います。
しかし、方向性が違った失敗から学んで成功へとつなげる方法もある。

アプローチが違っても、到達するゴールは同じにできる。
実現にはあらゆる方法論があるということです。(漠然とした表現ですが)


ある人の方法と、別な人の方法が違っているからそれが間違いとはそれだけでは言えません。
>それはそうでしょうね。

アドバイスはできるとしても、選ぶのはその人です。

>そうなのかもしれません。

周囲の人がすべて間違って、自分が迷惑を被るにしても、選んだ環境なら、厳しくいえば、その環境を変えることができなかったことが、その人の責任です。
それを改善するのがその人の役目でしょう。
気に入らないから責めるというわけにはいきません。

>なるほど。賛成。というか、よくわかります。


しかし、現実がそれで混沌が許されたままでいいかというと、そうとは限りません。厳しさが必要になることもあります。

>このあたりもよくわかりませんでした。

その環境(現実)に対して、改善できていないことがそのままでなんらの働きかけもしないでいるのがいいかというとそうとはいえない。


それは正義です。
何が遠回りなのかも問題ですし、個性の違いはあります。
お互いの発展を前提とした上でということです。前提が正義です。

>こう単純に言ってしまえるのは牧歌的としか言いようがないと思います。
>つまりここで問題になるのは、ではその「正義」とは一体なんなのかということです。

心として、魂として最大多数の最大幸福の実現が正義の実現となります。
それについてはもっと詳しく語る必要があるでしょう。


それが実現へとむかっていくためには必要な要素があると思います。
まず、理想が正しいということです。
次に、実現の可能性があるということです。
そして、実現への努力をしているということです。
また、お互いに邪魔をしないことです。

>「それが実現へとむかっていくためには」の「それ」が「正義」なのだとしたら、まずその「正義」について考えなければ、私にはなにもわかりません。

また自分が正しいということを前提とすると、正しいかどうかではなく、強いか弱いかという考えに陥りがちです。

>それはなぜでしょう?
>そうだとすればそれがいけないのはなぜでしょう?
>私にはわかりません。

(私はそうしたいとは思いませんが)
価値判断を停止したまま行動するのが楽だと思う方がいるからです。
そして、世の中には、到達する結論が正しければ、実現する方法、手段は問わないという方がいらしゃいます。

そうすると、結論が間違っていると後でわかっても、実現してしまったものは修正するのが大変です。
そこまでは考慮していないのでしょう。

価値判断を停止していれば、動物的感覚なのか、強いほうが勝つのなら、強い側に属していたい。
もしくは、自分が強ければ、自分が正義の基準になれると思いこんでいるのでしょう。

それらは価値判断を停止しているときの産物です。
さらに、その感覚が習慣化していると、価値判断そのものができなくなっていきます。

強いから正義なのではありません。正義が強くあるべきなのです。
逆は迷惑になるのです。

>わかりません。

価値判断そのものができなくなっている人が影響力を強くしていくと、混沌とした、弱肉強食の世界になっていきます。
そうではなく、智慧と慈悲の世界を積極的に形成する必要があるのです。

正義は対立を意味するものではありません。
正義は掲げるものです。それに従い来るものなのです。

>多くの宗教は自分たちがそういう「正義」のつもりでいるのではないでしょうか。

小さな世界の正義は成立していくでしょう。
しかし、国家規模、世界規模の正義となっていくときに、どれが正義なのかは、互いにその可能性、将来性から検討する必要があります。


問題となるのは、自と他が相容れないと決めてかかっているときに生じます。
実は努力さえすれば解決するにも関わらずです。
対立は一時の迷いに過ぎません。努力の余地があるだけです。
その人の価値観にはそれなりの根拠があるのです。
そこに問題があるとするならば、価値観の成長を止めてしまっている、思考停止している、その状態に問題があるだけです。
本来、時間を投入すれば解決するのです。その可能性は充分あるのです。


>ふーむ・・・
>日蓮正宗は絶対無理でしょう。教義的に。創価学会も。
>あとのことはあまり良く知りませんが。
>つまり、他宗教を知る「努力の余地」がないことがその宗派の本質である場合が多いように思うのですが。


宗派ができた時点で対立していることを明確にしていると、難しいのでしょう。

しかし、対立を表明したのは教えを広めるためのひとつの手段であったことを思い出してほしいものです。

対立する必要が本当にあるのかどうか。

結論として、本質を信じているか、理想があるか、努力はあるか、思考停止をしていないか、それを問いたいということです。

>うーーーん・・・
>こう言う前にまだまだ私にはよくわからないところがあるものですから、なんとも・・・

どれが欠けても、不完全な価値観への信仰でごまかしながら生きねばならなくなるということです。

>まあ「ごまかし」かもしれませんが・・なんとも・・・

あえて、そうなっている人々の心境を語るとすれば、それがわからないか、わかっていても怠惰であるか、どちらかです。

>「わからない」ことが本質でしょう。
>私としては、こっちから一方的に「わからない」とか「怠惰」だとかは言えないです。
>問うとしたら、なぜその人たちはわからない(ように見える)のか、ということであり、なぜその人たちは怠惰である(ように見える)のか、ということです。

現状より悪くなりたくないから、変えなければ悪くならないだろうという判断があると思います。他の価値観を知る勇気がないのです。

>同上。


「これさえあれば」、「これさえなければ」という限定があって、わからないままにしておこうとする理由があるからと考えます。
その状態を説明するとすれば、「執着」でしょう。

それが自由自在でない発想にしてしまっていると思います。
その内容は個別に異なるところはあると思いますが、そうした個別の事情での執着があると思います。




 CU