政治としての自由と平等

>授業中に流された以下の質問について
>どなたかにご意見を賜りたく、こちらに参りました。
>「日本人が自我意識(自由・平等の観念)を確立していない理由を
> 明治から現在までの出来事と関連付けて説明しなさい」










-設問自体は妥当か-
この設問自体の問題に、
1.日本人が自我意識を確立していないとは本当か?
2.自由の観念の定義は何か?
3.平等の観念の定義は何か?
4.なぜ明治から現在までの出来事が日本人の自我意識の目安になるか?

これらの設問の前提となる問題にまず答えなくてはなりません。
それぞれについてはどう考えたらよいのでしょうか?
すべて明確になり、前提として成立してからでないと答えることはできないと思います。

この問題を「日本人」から「人間」に置き換えて対比してみると設問の意図に沿うのかもしれません。

ただ、答える人がこれらの定義をきちんとできるのなら、すでに自我意識を確立していることになりますから、答える人が現代の日本人なら、その人は日本人の例外ということになってしまいますね。
これは逆説的に「設問が成立しない」ということを意味します。

設問を変更して、
「日本人として自我意識(自由・平等の観念)を確立するには何が必要であったか、
 その要因と阻害要因を明治から現在までの出来事と関連付けて説明しなさい」
と考えるのが適当かと思います。














































定義を私なりにしてみるとすると、
>1.日本人が自我意識を確立していないとは本当か?
>4.なぜ明治から現在までの出来事が日本人の自我意識の目安になるか?

ここでの自我意識とは自由と平等を主張する意識と仮定しておきます。
自由と平等を主張する必要はあったのかどうか考えてみましょう。
焦点はその目的であるところの自由と平等が確立されていたか、
確立する努力が必要であったか、確立への努力をしたかとなっていきます。

明治から現代の日本における自由と平等を確立するための阻害要因は
むしろ国家内部の要因よりも国家外部の要因に脅威があると考えられます。
ここで国家外部の要因、つまり諸外国の支配という脅威を度外視した推論は
成立し得ないのではないかと思います。

ここで私は国家内部の事情として
「この時代においては外国からの支配を退けることが優先されたので
   自我意識どころではなかった」
と仮定します。

国家としての主権を確保して後の国民の主権であるという現実に直面していた。
と仮定します。
自由と平等を標榜しているはずの諸外国は侵略と略奪を繰り返しており、
その支配に甘んずることは自由と平等を剥奪されることを意味していたからです。
なお、ここでは自国以外の利益については考慮しないこととします。
支配される国同志が自由と平等を確保しても、まるごと剥奪されれば意味をなさないからです。

つまり
「国家としての自我意識は存在した。
 ただし、国民個人としては自我意識を発揮する状況になかった。」
と仮定します。

また、自己主張をしないからといって、主張がないとは限りません。
また、主体性がないとも限りません。

よって、
「日本人が自我意識を確立していないとはいえない」
「明治から現在までの出来事が日本人の自我意識の目安とはならない」

と結論します。



























-自由と平等-
明治から現代ということですから、絶対的な概念としての自由と平等ではなく、
相対的な観念としての自由と平等について指していると想定します。

相対的というのは既に諸外国で実現していたところの自由と平等を指します。
本来の理想とされるはずの自由と平等はこの場合、範囲外とします。

さて、諸外国と日本における明治から現代までに実現されている自由と平等とはどういった観念でしょうか。

・法の下の平等
基本的人権や議会制民主主義、司法・立法・行政の組織、等、
国家としておおよその自由と平等を保障していること。

・法についての関心やその理解、遵守
一定水準以上の教育がなされ、その法についての理解ができるようにしていること。
国家運営についても十分に理解ができ、決定には従う意思があること。


考察
相対的な事例として考えるとき、日本においての自由と平等は
諸外国の自由と平等の実現より劣っていたと考えるには無理があると考えます。
かろうじて実現していたのは上記程度だったのではないでしょうか。
諸外国においても、日本においても同様です。
理想としての自由と平等は事実上、まだ実現していないのではないでしょうか。
一部の知識人の認識として可能であっても、社会としては未成熟と考えます。

自由と平等を理想と現実に分けて思想面、人生観、教育をも網羅した価値観の構築が必要と思います。
歴史上の事例から学ぶこともありますが、それは理想があってこその材料です。
理想としての自由と平等については過去の時代や外国の事例を基にせず、
人間としての本来の在り方を考察し、実現していくことが肝要と考えます。

設問に対しての適用
これらの理由により、明治から現代の日本をサンプルとした自由と平等の考察は日本だけの問題ではなく、諸外国にも適用される問題と考えます。
























さて、設問自体の問題はあるにしても、本来の自由と平等を確立するのに阻害要因はあったのでしょうか。

1)自由は与えられる概念なのか、自然に本来持っている概念か?
2)平等は与えられる概念なのか、自然に本来持っている概念か?
3)与えられる概念ならば、何から(誰から)与えられるのか?
4)自然に本来持っているならば、その阻害要因は何か?
5)各個人の自由と平等は社会の自由と平等との関係において両立するか?

この段階の議論となりますと、精神的背景が重要となります。
その社会が規範としている精神的背景に基づいて判断されているかと思います。

キリスト教圏においては主に”3)与えられる”であり、
仏教圏においては主に”4)自然に本来持っている”となるでしょう。
ただし、”与えられる”という与える存在は”神”であり、
”本来の性質”とは”仏の性質”に他なりません。
”神の下の平等”であり、”仏の性質に基づく公平”となるかと思います。
定義やアプローチの仕方に違いがあるとしても本質の違いはないかもしれません。

さて、ここで、日本においてはどうであったかを考えてみますと、
本質において日本も例外ではないと思います。
日本の神々に相当するのが神道であり、その最大の祭司が天皇となります。
キリスト教でいうところの預言者(予言者ではありません)に相当します。

その是非はともかく、精神的規範があってその下に自由と平等があるという構図となっています。

基本的な構図を描くことができたなら、その阻害の要因も分析することができます。

a)精神的規範は普遍的性質を備えているか
b)精神的規範は現実と即しているか
c)精神的規範は確立されているか

この価値基準としての精神的規範が不十分であれば、
その成果としての自由と平等は望むべくもありません。

では、明治から現代において、その精神的規範は確立されたでしょうか?
立憲君主制民主主義が定められ、本質においては現在も続いていると思います。
日本国憲法では信教の自由として特定の宗教を支持していませんが、
”宗教”としてでなく”象徴”として精神的規範となっています。

その象徴が機能している限り、神の下の平等は成立します。
現実はどうでしょうか。
それぞれ目安となる論点を挙げてみました。

法律が制定されるにはその論拠が必要であり、精神的規範があります。
私達の精神的規範は何でしょうか。
それを問うことになると思います。




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