時間と空間と理念&法則
空間は私たちが共通に認識できる空間だけとは限らない。
時間の流れも私たちが共通に計れる時間で流れているとは限らない。
私たちが自ら認識できると称しているもののなかで本当に確かなものがあるのだろうか。
認識しているそれ自体が法則であるにすぎないのではないか。
法則は認識できていない法則もあるのではないか。
思うこと、考え方、法則が「時間、空間、現象」より優先するのではないかと思うことがある。
その法則がその仕事として表現されたもののうちの一部が認識されているのではないかということを考えるのだ。
-空間-
あるまとまりのなかの一部分を取り出して個性だといい、違う部分を取り出して個性だという。
この個性が個性であるところの必然性は?
-時間-
その個性のなかから今日の私を取り出して、「私」という。
昨日の私を取り出して「私」という。
この時間が昨日から今日へ続いているという必然性は?
人間の尺度を外したら、この必然は成り立つのか?
(人間の尺度でさえもこれは成り立つのか?)
なにが基準で自身を把握しているかさえ定かではない。
なにをもって個性というのか。なにをもって私というのか。
なにゆえ発見をし、なにゆえに共感でき、なにゆえ、理想を描くのか。
こんな固定化されたような不自由な世界ではなく、思い即現実となった世界に在るならば、着眼点が異なればそれが如何なる意味を持つかも認識できるかもしれない。
「新たな」と付く経験は思い自体が発展を続けようという意志を内包する場合に与えられよう。
やはり現実世界と思っているものは、思いの世界の投影にすぎないのではないか。
現実世界はあまりにはかない。
しかし、時間を費やした経験は気の済むまでそれを繰り返す。
心がそれを求め続ける限り。
その個性が、その私が、その経験を求め続ける限り。
そして、それに呼応する他の存在がある限り。